No place to go

どすこい音頭。

かがみもち。

どうしたら、人に心を開ける?

パスワードを忘れて、ロックがかかったみたいに、自分にさえ、自分が心を開いているのか、どうやったら開けるのかがわからない。成功体験がないとその方法や感覚がわからないように、本当の意味で開いたことすらないのかもしれない。開けないことを咎められても、開閉のコントロールの仕方やスイッチがじぶんでもわからない。扉の鍵をなくしてしまったようだ。みんなどうやってるのどうやって身に付けたの。自分の本当を出せないのは、自分にも心の奥の扉の中に本当はなにがあるのか自分でもわかっていないからの気がする。

だれかがいなくなったニュースを聞いた。

神様が吹いた息で、一瞬で消し飛ぶもの 命とは、そんなもの


人は生きて死ぬんだということ 永遠のようで 死んだら二度と戻らないもの そんな危ない綱渡りのようなロープを、僕らは生命の灯が当たり前で あって当然のものだとおもって 紙一重のスレスレをわたって生きている

全巻揃えた漫画を売ってその都度後悔する。

誰かが成功して、幸せになり、それを祝えない時があるなら、それはその努力の過程を知らない時ではないか。しんどいことがあるならば、それに見合うだけの幸せを。苦しんでいる姿をずっと近くで見ていたひとが、努力の末に、その場を抜け出せた時、それはやっぱりうれしいことの気がして、そこまで魂は落ちぶれてはいない。

上野さんがでてくるタイトルの映画が「上野」みたいなもの?

シネリーブル梅田で「パターソン」を観た。

彼の日常は大きな事件は何も起こらず、繰り返しで、彼はそんな日常をたぶん愛して満足している。それは彼が詩をかき、日常に詩があるからだろうか。最後に登場した人が「詩はわたしのすべてだ」と言っていた。そんな風に言えるものが あらわれたなら。


どっちでも良いけど、映画館に一緒に入ってもらって横に座ってもらい、映画を観ている間2時間手を繋いでもらうサービス(それ以上でもそれ以下でもない、観終わったら解散)があったら、相場はいくらぐらいだろうか。2000円ぐらい?


¥。

好きなヒトにはできるだけ、安い服を着ていてほしい。

何気なく写っている写真で、微笑ましく眺めていた。するとだれかがそれらのジャケットが5万、10万、白いシンプルなカットソーなどは2万近くの値であることを特定した。もやもやの機関車が勢いよく煙をあげて駅を出た。

特定班の方たちが各々好きな声優のファッションブランドとそのなんだかべらぼうに高い値段を特定するたび、正直、対岸の火事だと思っていた。

わたしには見た目ではわからないし大して他と変わらないように見えるのになぜか高い服のよさや、それを買うヒトの気持ちがよくわからない。本当はとてもよいものなのかもしれないけど。わたしにとっての1万円が、その人達にとっての100円であるように、生活水準の違いかもしれない。

5桁の数字。庶民的。何でも特定されてしまう世の中。好きなひとが3000円のコミカルTシャツなどを着ていると安心する。

 

ふれる。

この世界の片隅に」を観た。

今まで、生活と生きることはまったく別物だと(生活はただ目の前にある毎日を繰り返していく無味なもので、生きることはそれよりももっと大志や夢を抱いていたり人生をかけて成し遂げたい野望があったりの壮大なものとして)、区分して考えてしまっていたが、生活と生きることはイコールで重なる同じものなんだとこの映画を観て思った。

かなしいことが起こっても、それが過度にドラマチックに悲劇的に描写されていないのがよかった。悲劇も、生活のなかで抱えてのりこえていかなければならない生きることの一部だからだろう。