No place to go

どすこい音頭。

一瞬さ僕らの命など。

ずっと、今までいつ死んでもいいと思って来たし、なんなら早く消えてしまいたいだったり、続いて行く人生の長さに白い絶望を抱えて明日死んでもかまわないだったり、思って来た。

それは人生を「やり切っているから」という豪快なかっこよさから来る思考ではなく、ただただ、これから何十年も続いて行くであろう人生への果てしない絶望感とため息からくるものだった。

でも最近、どういうわけか、明日死ぬことをイメージすると、いやだまだ死にたくないと感じる。それは感覚が正常になったのか、言い換えれば俗世的な感覚にまみれたつまらない人間になったのか。たぶん後者だろう。それは一般的には健全で良いことなのかもしれないけど、何か大切な感覚を失くしてしまったようで、とてもかなしいことだ。

そしてその死への躊躇というのは、死ぬこと自体への恐怖というよりも、まだあまりに何もしていなさすぎる…ということへの心残りや悔恨なのかもしれない。ここでゲームオーバーって、あまりにこの人生無駄じゃない?いや全然満喫してないよという。

 

そして、それとはべつに、最近お風呂で浴槽に浸かっている時ふと、十年前の中学時代、高校時代を振り返ることがあった。

この10年。特に何もなく、何か特別なことを経験するでもなく人間として通過儀礼で通っておかないといけない道を通ることもなく、10年間という月日がただ過ぎ去って、この地点まで来た気がする。そして、大学を卒業して一度就職してから、もう3年以上も経った。周りともよく話していたけど、働き始めてからは感覚として月日が経つのがとても早く感じた。

この10年を、あと6回ぐらい繰り返したら私は死ぬ。×6、あまりにポップな速さ。そう考えたら、とたんに死という魔物が身近に思えて来た。エレベーターに乗って6Fまで昇ったらすぐ出会えそうな近さ。長い歴史の地球の営みの中では、一人の人が走り抜けた時間も米粒のようなものだ。永遠のように感じていた時間も、宇宙の神様がその大きな手でリモコンのボタン一つを押すだけでエンドロールまで辿り着く。

 

昨日のアジカンのライブで観た曲のなかで、ふっとやさしく息を吹きかけられたように耳が反応したフレーズが、永遠や瞬間を語るものだった。

■“一瞬さ僕らの命など ” “一瞬の僕らの美しさを” (深呼吸)

■“(誰の身体もいつかなくなって)永遠はないのだろう”(青空と黒い猫)

“一瞬さ僕らの命など”、いや、ほんとにそうだな、とその瞬間思った。

「深呼吸」に関しては演出が泡々の水をイメージしたもので美しかったりしたのも心に響いた理由としてあると思うけど、ライブで聴いてみてすごくハッピーだな良いなと思った曲のタイトルが「今を生きて」だったり。なんとなく、「今」や「永遠」を感じるものに耳がトゥンクしたのだった。

ほかにも反応しそうなものがいっぱいありそうな中でなんでなんだろうな、と自分でも不思議だった。終わったあとふと振り返ってみて、もしかしたら、最近無意識に感じていたこととどこかで繋がっていたからかもしれないと思った。