No place to go

どすこい音頭。

I DO。

 

わたしは、する。わからない、と思考停止する。

わたしが、心と口が直接つながっているかのように わからない、と言い始めた時は、思考停止のサインだ。

「わからないと言っていても何も始まらない」と言われた。本当にそうだ。図星だ。えぐられた。

瞬間移動で距離を詰められて右頬に容赦ないパンチを食らわされた時のようなきぶんになった。

なんかもうほんとうに、死んでもいいんじゃないかとおもった。そんな今日だった。

 

なにも、自信は無い。なにもかんしても、自信は無い。やり切れる自信が無い。辞めない自信が無い。

深夜にも働く作業がある、そう言われて、それでもやり切れる自信が無い。男社会の力仕事メインだ、そう言われて、それでもやり切れる自信が無い。将来のことを考えてしまう。将来、そんな深夜にも作業があって、また力仕事だらけで、年齢がいった体で体力的にこなせるのか。体育会系の、男だらけのガテン系気質ぽい人達が多い中で、性質が合うのか(合わない気がする、前の会社でも工場の人達のノリが合わなくて悩んでいたぐらいだから)。それは例えば、イベントの設営や、舞台の制作(舞台セットや大道具、小道具などの製作)、看板・木工加工品の製作、などでも大体同じだろう。今日、ハローワークで訊いて来た時も、大体その辺りの仕事は力仕事・ハードな男性社会の仕事だと言われた。確かに社員の構成を見てみたら、女性社員の人数が1人(おそらく事務だろう)とか、ほんとうに少なかった。前の会社の職種は、同じ「ものづくり」でも、そういう体育会系の現場仕事というより、デスクワーク中心の開発職だったので、女性でも入らせてもらえたし、妙なガテン的な空気もなく、その点の問題はあまりなかった。その当時は、周りが男性だらけだ、ということも特に気にしていなかったし、女性でも作業着を着て働くことは恥ずかしくなかったし誇らしく思っていた。事務の人達が着ている、ぴっちりした旧来通りの制服は、なにかに縛られているようで、居心地が悪そうで、着たくはなかった。

また、職人的な人間が多い世界だと、メモもろくに取れず、とにかく見て覚えること、頭で考えるよりも見て感じて覚えることを要求されそうな気がする。メモをとっていると、なんでそんなもんとるんじゃい!!と怒りを買いそうな気がする。わたしは、メモを取らないとだめな人間だ。メモにとどめて図解したりしてまとめないと、忘れてしまうし、すぐわからなくなる。矢継ぎ早にあらゆることを言われたら、パニックになって、消化不良で、昨日聞いたことだって、忘れてしまっているだろう。

職人的な人間が多い世界だと、ガンコおやじ気質の圧倒的に多そうで、ボロボロに叱責されることが多いイメージがある。怒られることはオフィスワークであれどの業界、どの仕事でもあると思うが、そうやって、職人の人達の世界特有の土足で踏みこみ具合で叱責されながら仕事をして行って、果たしてじぶんのメンタルは大丈夫なのか。辛くなってもう無理だ、と思って、耐えられなくなって、辞めてしまわないのか。そこをやり切れる自信が無い。

 

そう考えると、ものをつくる、という世界は無理なのか。人に言われるように、正確性やきっちりしたいことが特徴なら、その特徴を生かせる仕事をして、趣味として、お芝居を観に行ったり、ライブを観に行ったり、なにかをつくったりしたらいいのか。それが安心してじぶんが生きられる道なのか。

でも、それで本当に、このもうひとりのじぶんが 大人しく、死ぬまで 閉じこめた沼のなかで眠っていてくれるのか。とちゅうでどこかで、爆発したりしないのか。別の「あったかもしれない道」を思いながら、ずっと if の後悔を抱きながら湿気てじめじめしたマインドで生きて行くことにはならないのか。ばくはつして、仕事を辞めてしまって、路頭に迷うことにならないのか。

お芝居を観に行くだけ、ライブを観に行くだけ、アニメを観てにやにやする、誰かすごいことをしている人達のフォロワーでいる、そんな、何も産まない、ただ消費してお金を払って満足を得る、というその構造の中でレールに則って生きて行くことが、こわい。そうやって生きて行ったら、好きな声優、好きなバンド、年月を経るごとにそれらが代替わりで季節がめぐるように新しくなっていくだけで、死ぬまでそうやってレールの上を走りつづけて行くことになるのだろう。

消費ではなく、生産して生きて行きたい。

わたしの問題は、こうやって思いを抱いておきながら、表現手段を持たないことだ。すべてはちゅうとはんぱだ。つまり、口先だけということだ。絵を描くのがすきで絵を表現手段にしているひとは、例えば好きな作品があったなら仕事が終わってからその作品を消費しながらも同人誌を描いたりするのだろう。ファンアートを描くひとはとても多い。文字を書くのがすきで、言葉を表現手段にしているひとは、仕事の合間などにネタのブログを書いたり、観た映画についての感想をコンスタントにブログに書いたりして、自己発信を行ったりするのだろう。音楽が好きで楽器をやるひとは、仕事としての音楽ではなく、社会人バンドを組んで仕事終わりに曲を作ったりバンド練習をしたり、自身の趣味を充実させるのだろう。

 好きなゲーム作品のキャラクターのビニール傘を作ってみたり(本当に簡単な紙の切り貼りレベルで)、気に入った雑誌の表紙やガンダムなどのメカの模写をしてみたり、新しいヘッドフォンの形はこういうのはどうだろう?と考えてデザインとして描き起こしてみたり、撮った写真を写真サイトに投稿してみたり、じぶんの絵をプリントしたTシャツをアプリでデザインとしてつくってみたり、そういったことはたまにはやるが、全部ちゃっちくて、継続したり実際の行動レベルではない。(ヘッドフォンも製作する気になっていないし、プリントTシャツもお金がかかるしこんな大したことないもんプリントしてつくっても結局自己満足や…と思うと注文できていない)

表現したい欲はあっても、その表現手段を持たないことは痛手だ。そして、それは本人をよりいっそう痛々しくさせる。

 

ちゅうとはんぱな人間だということに気づいていない、ちゅうとはんぱな人間なのか。