No place to go

どすこい音頭。

No way to go.

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登っている時、六合目あたりで夜の山梨の町に灯るたくさんの町明かりを見ながら、ああじぶんもあそこにいるひとたちのように、まともにちゃんと働いて生活したい…と一瞬だけ思った。

あと、八合目から登っている時、頂上から下山して来る時、今じぶんが着ている・持っている装備はすべて母のもので、また、嫌な顔せずペースを合わせながら歩いてくれるさいさんやくまさんの存在に、じぶんはたくさんのひとに支えられてやって行けてるんだな…と感じた。本当に一瞬。

思っても一瞬後には泡のように消えて行く。こういった感情が長続きしない。なぜなのだろうか。

 

「富士山に登ると(ご来光を見ると)人生観が変わる」みたいな話は聞くが、残念ながらわたしの人生観が変わることはなかった。グランドキャニオンで早朝朝日を見たときもそうだったが、わたしにとって、山の上で見るご来光も、自分の町の部屋の窓から見る朝日の顔出しも、同等のものなのかもしれない。地上にいて見える朝日でも、忙しなく通勤の人々が交差する街中のビル群の間から見える朝日でも、それが素敵な朝日ならばきっと見入ってしまうのだと思う。

「人生観が変わる」ことはなかったが、とりあえず、

1.どんなに下山が体力的にしんどくても、足をひきずっても、残念ながら自分が歩かないことにはもといた場所に辿り着けないこと

2.長い長い夜が終わった後の太陽の光の有難みを知れたこと、それは人間を元気にすること

を自分の体感として知れたのは、あまり無いことだったと思う。

 

あと、あれだけ砂埃がすごい土の上を歩いて来たので、東京に帰ったあとはてっきり鼻毛もだいぶ伸びているだろうと思っていたが、実際帰って見てみたら案外伸びておらずなんだか期待外れな気持ちになった。