No place to go

どすこい音頭。

世界樹の下で。

先日、新宿のねぎしで牛タンを食べながら人と話していて思ったこと。

人と人との付き合い方のスタンスの違い。友達と旅行に行くときの交通手段の話で、自分はすごくドライなんだと知り衝撃を受ける。

その時話していたかた(A氏)は、すごく人を引き寄せる力を持っていて、そのひとの周りには多くの、力のある人が不思議と磁石のように集まって来る。人がたぶんすごく好きで、人との出会いをとても大切にされている。

私もいつからか、ああ何か新しいことをすることで誰かと出会ったり自分が変われるようなきっかけをつくれたりしたらな、と思うようになり、例えば校正講座に行ったり、大学事務の派遣社員時代全然詳しくないけど学校にノーベル賞受賞者の教授が講演会に来られたら半休取ってその講演を聴きに行ったり、いろいろしてみたけど、そうやって"邪な下心"満載で行ったものに関しては、「これだ…!」というものを見出せず、結局何も劇的に変わることなく元いた日常に戻るばかりだった。勘が鈍いのか、センサーが錆びているのだろう。

そんな中で、さっき書いたA氏みたいなひとに出会うと、こうやってたくさんの人を引き寄せる魔法の力があるひとは不思議だなと思う。本人が周囲に対してとても心を開いていて、親しみやすいし人を大事にするひとだから、そうなる、という面がとても大きいのだろうけど。

私はいつも、選択を間違っているのだろうか。行くべき場所を間違えているのだろうか。今まで、じぶんに変化が訪れた・得るものがあった(精神的にどうこうと言うより否応なしに進むレールの方向がガクッと変わった)、と感じたのは、誰かの死だったり、寝耳に水で新しい部署に異動させられたり(そしてそこから結構しんどい日々が始まる)とか、 自分で選択したというよりは、受け身で与えられたものに関することばかりだった。笹船のように人生を、流されて生きて行った方が自分は良いのだろうかと、そんな甘えた考えさえ浮かんで来る。

 

A氏は、自分を媒介して人と人とが繋がってくれたら更にうれしいと言っていた。本当に人に対する温かみがあふれていて、人が好きなようだった。

自分も、人のことを面白いと思うし、だから「人間」が描かれた演劇など観るのだろうけど、その、人間に対する愛着は、客観的な観察対象としての愛着で、A氏とは方向性がちがうんだと思った。物語としての人間の欠陥に惹かれる感覚。私は人と直接触れ合ってじぶんのつくるもので人の感情を動かせる仕事に就きたいとか言ってたけど、本当は世間で言うような「人が好き」なんて気持ちは一切無くて、それは間違った選択なんじゃないかという気がして来た。