ヘイマイブラザー。
アメリカから叔母(母の姉)が一時帰国していて、家にいる。母と叔母がリビングで話しているのを見ると、兄弟がいるひとがうらやましいなとふと思った。お金をためて世界一周旅行に行くだとか、良い家を買うだとか、そういうことは後になってからでも努力次第で出来るかもしれないけど、兄弟の血縁は大人になってからできるのは難しい。(お父さんやお母さんに今からがんばってほしいというわけではない) 同じ家族でも父や母ではなく姉や弟という兄弟との血縁の独特の感覚というのは、きっと実際に兄弟をもつひとでないとわからない気がするので。どんな感覚なんだろう、知りたい、と思う。
高校の頃、弟をもつ友人と映画「ゆれる」を京都のみなみ会館に見に行った。帰りに2人でいろいろ感想を話して帰ったのだけど、あの物語はきっと友人のように兄弟がいるひとが見たほうが感覚でわかることも多いんだろうな…と思って、ひとりっ子のじぶんがその物語の登場人物の気持ちを理解しようとしても類推でしかなく、友人と何気なく話しながら内心もどかしかったのを思い出した。
愛とはすこしちがいますが。
貶し愛というのはよくわからないけど、例えば好きな著名人のちょっとした発言も気になって「あの考え方とは合わないな…」と批判的になったり貶したりその人に対する自分の考えを常に明らかにして座標を見付けようとするのは、その人の世界と真剣に向き合いたいという気持ちの表れでもあるのかなと思った(重い)
冷静に批判しているように見えて水面下では必死にばた足泳ぎしているというパターン。
愛というより、真正面に対峙して闘おうとしている感じなのかもしれない。向こうはこっちのことも知らないしそんなこと一人で悶々と考えても仕方ないわけだけど、そんなひとり遊び上手。
相容れないものを無理に最初から、全部は受け入れたくない。と思っているのかもしれない。パターンとして、あの考え方は理解できない・合わない、という部分があればまず最初はそこを自分でしっかり認識して自覚しておくことが多い。「理解できないことは理解できない」と。でもそれは、ただ批判したいのでなく、「その人を好きになりたいから」という動機が根底にあるからこそ。考え方がちがうなら、じゃあそこに対して自分はどう考えるのか、という立場の表明も。そしてどうやったら受け入れられるだろう…と何度か考えてみるうち、月日が経つうちにだんだんその人の考え方も理解できたり、肩肘張らず自然に受け入れられるようになっていることがある。遠回りだし不器用。もっともっと年を取って行ったら、変わって行くのだろうか。変わってもっといろいろな物事を素直に受け入れられるようになったほうが楽だと思いつつ、今あるOSが変わってしまうことにも淋しさを感じる。
思い浮かんだシチュエーション。
心をすべて奪い尽くした最後に、きみの大切な人の写真を、きみの前でライターであぶって焼こうとする。そうしたら、心が無くなったきみから流れる涙がみてみたい。本能から汲みあげられた、意味をこえた涙を。その涙がみえたなら、この五線譜にかかれた物語は終了だ。
一瞬さ僕らの命など。
ずっと、今までいつ死んでもいいと思って来たし、なんなら早く消えてしまいたいだったり、続いて行く人生の長さに白い絶望を抱えて明日死んでもかまわないだったり、思って来た。
それは人生を「やり切っているから」という豪快なかっこよさから来る思考ではなく、ただただ、これから何十年も続いて行くであろう人生への果てしない絶望感とため息からくるものだった。
でも最近、どういうわけか、明日死ぬことをイメージすると、いやだまだ死にたくないと感じる。それは感覚が正常になったのか、言い換えれば俗世的な感覚にまみれたつまらない人間になったのか。たぶん後者だろう。それは一般的には健全で良いことなのかもしれないけど、何か大切な感覚を失くしてしまったようで、とてもかなしいことだ。
そしてその死への躊躇というのは、死ぬこと自体への恐怖というよりも、まだあまりに何もしていなさすぎる…ということへの心残りや悔恨なのかもしれない。ここでゲームオーバーって、あまりにこの人生無駄じゃない?いや全然満喫してないよという。
そして、それとはべつに、最近お風呂で浴槽に浸かっている時ふと、十年前の中学時代、高校時代を振り返ることがあった。
この10年。特に何もなく、何か特別なことを経験するでもなく人間として通過儀礼で通っておかないといけない道を通ることもなく、10年間という月日がただ過ぎ去って、この地点まで来た気がする。そして、大学を卒業して一度就職してから、もう3年以上も経った。周りともよく話していたけど、働き始めてからは感覚として月日が経つのがとても早く感じた。
この10年を、あと6回ぐらい繰り返したら私は死ぬ。×6、あまりにポップな速さ。そう考えたら、とたんに死という魔物が身近に思えて来た。エレベーターに乗って6Fまで昇ったらすぐ出会えそうな近さ。長い歴史の地球の営みの中では、一人の人が走り抜けた時間も米粒のようなものだ。永遠のように感じていた時間も、宇宙の神様がその大きな手でリモコンのボタン一つを押すだけでエンドロールまで辿り着く。
昨日のアジカンのライブで観た曲のなかで、ふっとやさしく息を吹きかけられたように耳が反応したフレーズが、永遠や瞬間を語るものだった。
■“一瞬さ僕らの命など ” “一瞬の僕らの美しさを” (深呼吸)
■“(誰の身体もいつかなくなって)永遠はないのだろう”(青空と黒い猫)
“一瞬さ僕らの命など”、いや、ほんとにそうだな、とその瞬間思った。
「深呼吸」に関しては演出が泡々の水をイメージしたもので美しかったりしたのも心に響いた理由としてあると思うけど、ライブで聴いてみてすごくハッピーだな良いなと思った曲のタイトルが「今を生きて」だったり。なんとなく、「今」や「永遠」を感じるものに耳がトゥンクしたのだった。
ほかにも反応しそうなものがいっぱいありそうな中でなんでなんだろうな、と自分でも不思議だった。終わったあとふと振り返ってみて、もしかしたら、最近無意識に感じていたこととどこかで繋がっていたからかもしれないと思った。
ドンドン。
せらふぇすレポで梅ちゃん推せ推せドンドンな中村さんの話ににやにやしていた。
で、思い出したんだけど、そう言えば春頃のセラフのラジオで梅ちゃん「声の帯域的には(中村くんと)近いだろうから現場でも憧れたりしてるんじゃないの?」って鷲崎さんに言われてて。そのときは何も思わなかったんだけど、あらためて防衛部で梅ちゃんの歌うキャラソンとか最近聴いてたら高い音域がんばってるときの出し方で不思議と 自分が好きなタイプの中村さんの高音歌声のしぼり出し方が想起されたりして、つい最近ハッてなってたとこなのだった(一息)
ちょっと深みのある、中~低音域の声の方ががんばって高音しぼりだして歌ってるのがとてもすきです。
セラフ、展開が微妙だな~と思って1クールめの途中でとまってるんだけど、こんなナイスなレポ土産話聞かされたらまた気になって来た…。
No title.
一昨日、公開初日に「心が叫びたがってるんだ。」を観に行って来た。
○良い作品で、もう二度三度、観たくなる作品だなって印象だったんだけど、観終わって一日経って、パンフレットを読みながら、あらためて、「ここさけ」で自分が一番感じたこと、印象に残ったことは何なんだろう、と考える機会があった。結果、一番印象に残ったことはたぶん二つくらいあって。