その心が世界だろう
久々にTHE BACK HORN のイキルサイノウを聴いていた。
「生命線」の「その心が世界だろう」という歌詞が、高校時代とてもすきだった。(正確には「この空も 暗闇も 心映す鏡なら 変えてゆけるいつだって その心が世界だろう」)
すきだったと言うか、本当にしんでしまいたいと思っていたときに救われていた。
自分にはなにも失くなってしまったとおもっていた頃、すべて失ったその心自体が今目の前にある世界なんだと思ったら、ああ何もなくたって構わないんだ、と なんだかその心を受け入れられる気がした。スッと楽になった。
そうやって事実があったことは理性としては覚えているのに、時を経てそのときの感情がカムバックしないことに一抹のさびしさを憶える。
年をとると、感情ではなく、事実だけが積み重なっていくのだなあと思う。中身をともなわず、すがる対象だけが増える。感情の心電図の波形も弱くなっていく。
こうやってどんどん、大切だったことを忘れていくのだろうか。
永遠の少年性。
今日、まだ新しく入って数日目の後輩に当たる人が、デスクがするような指摘をした。
日本語のわずかな違いのようなことだったが、直感的に「おかしい」と思ったようだった。
その指摘を、私と、先輩は、そもそも初読で気付かなかったし「なかなか支局にも言いづらい…」とスルーして伝えなかった。
そうしたら、後からデスクが来てピンポイントで「あの部分の日本語はおかしい、言えるなら言った方がいい」との指摘があった。
新鮮な目線。それは毎日の作業の中で失われていくもの。何も知らないころ、全てがきらきら輝いてみえていたようなころ、恐らくわたしにもあったもの。視点。
全てを知る賢者と、生まれたばかりの赤子のようなピュアな視点が同居しなければいい仕事ができない、という作業。
いつかその人も、ピュアで新鮮な視点を忘れてしまうのかもしれない。
それは関係無いにしても、自分はどうやれば新鮮な目線をもちつづけられるのだろうか。ポロポロと剥がれていく中で、それが分からない。
true blue
僕がまだ、世界を綺麗にみれていたころのはなし、きみがとなりにいたころのはなし
I wish that I could sing a song that you'll be touched.
無印に行ったらお姉さんとお母さんらしき人と一緒に買い物に来ている背の高い超絶イケメンがいた。180cmを超えてるんじゃないかってかんじで本当に背が高くてモデルかと思った。思わず二度見した。お姉さんとお母さんらしき人は背が低めだったから、もしかしたらお父さんの力なのかもしれない。
無印を後にして、グランフロントの帽子屋さんに寄ったら、そのモデルイケメンにまた出会った。なにかこれは運命なんじゃないかと思い、とりあえず2人のお付き合いが始まるところまで想像したが、実際は特になにも起こらず店をあとにした。(当たり前だが)
でも、あんな風なイケメンと、もしここがパラレルワールドの少女漫画のご都合展開世界だとして(お金をチラつかせて…でも良い)、付き合うとしたら、わたしは付き合えないんじゃないかと思った。結局。顔が良かったりスタイルが良いと、あまりに現実感がなさすぎて、中身を見るより結局その容姿を"ブランド"としてしか扱えない気がする。そして、そんな風に"ブランド"として扱ってしまってるじぶんを、いやになるだろう。その程度の人間だ。
打てども打てども響かない。
自分の価値を高める、か…。
歌い続けよう、声を届けよう。
小野さんのヒーローを購入した先日。外に出かける際に毎度聴いている。
今年はおれパラ行かないと決めていたので本当は買うつもりもなかったし、なんならついこの間まで発売日も知らないぐらいだったんだけど、ふとHPでMVを試聴してみたらそれがすごくよくて……ビビッと来て…こんな素敵な楽曲にお金を落とさなくてどうする??!!と思い発売一週間前に即購入を決めたのだった。
そしてフラゲして一日一善ならぬ一日一ヒーロー。
聴いていて……ヒーローもcanvasも、今まで音楽活動を何枚も積み重ねて来て声優としてのキャリアも重ねて来た、今の場所まで旅してきた小野さんが歌う意味、というのをすごく感じさせられる楽曲たちだなと思った。そんな印象を感じる。今だからこそ出せる色合いが曲の内容や歌い方からも滲んでいる気がする。
MVを初見試聴した時、やさしく包みこむような響きが印象的で……今までの小野さんの歌に比べて、聴いていて歌の言葉や音の響きがストレートに心に入って来るのってなんでなんだろう?って思ったのだけど、小野さん自身の素の気持ちがうたわれてたからなんだなぁ。と、声優男子。のインタビューを後々読んで理解した。
この雑誌を読んでから、CDを聴けたことをよかったと感じる。歌にこめられた思いを知れてから作品にふれられたことで、感動が増した。
ジョジョやばらかもんを話題に出されていた時にそれらの作品で「次の世代に渡す」ということの大切さを最近気づかれた……というようなおはなしをされてて、で、それはまさにヒーローのMVを初めて見た時にうっすらすごく感じていたことだったから、あ、あの印象はまちがってなかったんだなって。分かったことがよかった。
なんだろう、Anthemの次の世代にバトンパスしていく的な、そういうものに近い響きを感じる。見守る側へ。うまく言えん!!いい意味で力抜けてる感? この年齢になったからこそ歌える、醸せる音の響きがまじってるようにもきこえて、すごいなっておもう。無意識に心つかまれる。
— ちくわ (@ojojoj19) October 26, 2015
(吉野裕行さんのAnthemのコンセプトを思い出していたようです)
それにしても、canvas。
初めて聴いた時、何者も演じていない、 素の気持ちをうたっていてくれることがすごくすごく嬉しくて…こみあげるものがあって…そのきもちを乗せて運ぶのにぴったりな、やさしい楽曲で…涙がじんわりしたのだった。でも気付けば聴いている側の口角はやわらかくカーブしている。目頭の湿りと微笑みの同居。何度聴いても、いろんな箇所で鳥肌が立つ曲。
「歌い続けよう、声を届けよう」のところの盛り上がりでいつも泣きそうになる。
と同時に、今まで小野大輔というひとと関わってくれた沢山のひとたちありがとう、みたいな感謝のきもちがじんわり湧いて来る曲でもある。曲を聴きながら、今耳元で歌をうたっているひと以外のひとたちに深々感謝するって変な話だけど。
canvasがライブでうたわれる時の様子をイメージしてて……最初はみんな白色のサイリウムなんだけど、2番の「赤 青 黒 緑 紫 」のところで順番にその色にサイリウムが変わっていって、その後のサビからさらに思い思いの色を加えたキャンバスを会場に広げられたらキレイだろうなあと想像してひとりうっとりしてた午前…。
なんだろう、今まで小野さんは音楽活動において歌を届ける時、それぞれの曲に物語があって「小野大輔として」でなくその物語を演じる形で歌うことが主だったと思うんだけど、でも今回は小野さん自身の素の気持ちがメッセージにこめられてるってことで……逆転してて変な話なんだけど、今回のほうがよっぽど物語的というか、すごく共感しやすいストーリーが聴いてて出来上がってるってことが不思議で面白いなって。それはたぶん、今までの楽曲で歌われていた架空の物語よりも、わたしたちにとっては小野大輔という一つの物語のほうが想像しやすくより馴染み深く感じられるからなのかなって思った。付き合ってきた時間の差はあれ、その物語を追いかけてきた対象だから。だから歌に気持ちが寄り添いやすいんだろうなと。うーん、おもしろいなぁ。
寺島さんの新曲情報も昨日の生放送で聞いたのと、今回の小野さんのヒーロー/canvas という楽曲の良さもあわさって、今年は行かないと心に決めていたおれパラにも行きたくなってしまっているよ……。
(てらしの新曲は、びびっとないとふぃーばーがすごいよかった!!踊りたい!5周年ライブ開催おめでとうございます!!)
ヒーロー、MVはまだ見られていないので、また見ようと思います。
正しい大便のやり方。
ブログやTwitterなどSNSに自分の意見や頭の中で考えてることを投稿するのは、スクランブル交差点でりきんで大便を落として行くみたいなものだなと思った。一瞬忘れがちだけどパーソナルで恥ずかしいことだよな…と。恥ずかしさにふと気づいた。
落とした大便については、たまに誰か心あるひとが拾って片付けてくれるかもしれないけど、基本的にみんな都会の人なので除けて歩いて行ったり。においがすごい臭いかもしれないけど、誰も臭いといってくれないからその事実に本人が気づかなかったり。うっかり踏んだ人に怒られるパターンもある。
間違ったことをいってるのかもしれなくても、当たり前だけど交友関係が少ないと誰も指摘してくれないから自分でそれが正しいと思って鼻高々になってしまうことが恥ずかしいと気付いた。うしろでププッと「あのうんこ、ちょうクサいんだけど」「長すぎるんだけど」って笑われてるかもしれないのに。
そんなことを考えていたら何も自分の中から出せなくなると思いつつ、人に見られても大丈夫なような、恥ずかしくない説得力あるカッコいい大便のやり方を習得できたらそれに越したことはない。